何も考えられない

 ここには日々ぼんやりと考えていることを書こう,そう思ってブログを再開したものの,特に考えていることが無かったりする.考えていることが無いのなら,いつまでも更新しなくてもいいわけだけど,考えていることが無いにもかかわらず,ふとどこかに何か書きたいという欲望が訪れることもある.というわけで,何か書こうと思うのだけど,何も考えていないのに切れのいい文章を書いたりするような欺瞞的な態度は避けたい.それよりは何も考えてない性が浮き彫りになるような雰囲気を目指そうと思う.とはいえもちろん,何も考えていないというのは比喩的な意味であって,意識があるかぎり,常に私の頭には思考が流れ込んでくるわけでその間,私は私なりに論理的に活動している.問題は思考が明晰な像を結ばないことである.言い換えれば思考と言語のあいだに距離があるということで,その距離は幼いときはもっと近かった気もする.感じたことを言語化して論理的に説明すること.この単純に見える行為が最近つくづく難しいと感じるのだ,というといかにも何も考えてなさそうに思われるかもしれないけれどそれはその通りで,もはや私は何かを考えることには興味はなく,思考以前のニュアンスの戯れの世界で永遠に遊んでいたいのかもしれない.ともあれ思い返せば,思考と言語がほとんど一致しているように感じていた昔の私はつくづく言語や論理というものを信頼していて,論理的に説明できない意見は無に等しいと感じていた.そして,なんとなくの感性というのを全く信用していなかった.たとえば,詩論というのはたいていは直感に基づいて書かれるものだから,その詩に興味を持つきっかけとしてはいいかもしれないけれど,詩と詩論に目を通したからといってその詩を読んだということにはならなくて,けっきょく詩をちゃんと読むには詩を暗唱するしかないとその頃は思っていたわけだけど,自分の記憶や知識の不確かさ――これまで読んだ本のいくつを私は頭の中で再構成できるのだろう? おそらく一つもない――に自覚的になってからは,詩を読むということは,自分なりのその詩の楽しみ方を見つけ出すことだと考えるようになった.同じように,言葉では感じたことの半分も説明できないような事柄があると気づいてからは,非言語的な知識――たとえばある芸術作品のどこがいいのか筋道を立ててうまく説明することはできないけれど,その良さが「わかる」ということ――も信用するようになった.そこには思考停止の罠もある,というかすでに罠にはまっている気もするのだけど,ここで重要なのは直感の回路――身体――を書き換えることで,それは決して軽薄な反知性主義ではないし,むしろ成長とか知性というのはそういうものなんじゃないかとも思う.というのは思考のきっかけというのは直感でしかありえず,私にもし高度な直感がなければいつも動物的な感覚から再出発しないといけなくなるからで,けっきょく,私は意識的にものを考えることはほとんどなく,代わりに無意識に多くのことを思考してもらっている.似たような話は小さい頃から色々な本で読んできたはずだけど,このことにちゃんと気づくのにはだいぶ時間がかかったように思う.