帰省して実家であまりにやることがないのに気付いて愕然とする.コントローラは壊れててゲームはできないし,もしできたとしてもたいして楽しくないとも思う.読むべき本もほとんどない.ピアノは弾きたいものの,下手なので家族に見られるのが嫌だ.それに文章もまともに綴れる気がしないし,論文を読む気にもなれない.そこら辺を走ってくる気にもなれず,結局残ったのは退屈という気分で,退屈なだけに,どうしようもない.こんな時にひとはたばこや酒をやりたがるというのを僕は経験上知っている.確かに,酒を飲めば倦怠は吹き飛ぶだろう.けれどもそれはとんでもなく無駄な行為のようにも思う.僕たちは旅をする喜びを得るために旅をするわけじゃない.昔,この言葉を読んだとき,僕は愚かにも愚かだと思った.というのは,僕たちの最終的な物事の判定基準は快楽原則以外にありえないと思ったからで,それは確かにそうなのだけど,やはり何か理念を信じなければひとは生きていけないと,最近は思うようになった.つまり方便としての理念,というわけだ.とここまで書いてみて,すこし気分がよくなる.そんな感じ.

 友人が「一年前がついこのあいだのように感じる」と言っていて,僕は一年前というのは遠い昔のように感じていたから,意見が合わなかった.その時僕の念頭にあったのはベルクソンで,つまり,記憶の中の距離は,実際の時間上の距離とは違う,ということだったけど,うまく説明できなかった.いや,それだけじゃない.僕が一年前を遠い昔のように感じるのは,例の「大切なことはみんなすでに終わっている」というエロゲー的な考え,それからひとは一瞬ごとに死んでいるという刹那滅的,あるいはヒューム的な考えが念頭にあったからだ.その両方をあわせて,原始偶然の思想と呼んでもいい.とにかく,その友人にとっては,一年前はつい最近の出来事だった.一方で僕にとっては一光年の彼方の遠い遠いお話で,つまり僕と彼では住んでいる宇宙が違っていた.そんな感じ.

 とある会に入会したり,ささやかな詩が採用されたりするだけでも,うれしいものだ.それで生が救われるというわけでもないのに.ともあれ非-アカデミックな人文-知というのは,どこか秘密結社的な色合いを帯びている.フランスですら公には哲学として認められていないポストモダン思想の秘密結社的性格,あるいは前衛芸術運動のそれ.たいがいの秘密結社的なものは,社会に対する大した影響力を持たないにもかかわらず,独特のプレザンスを発揮する.それはいわばサブ-サブカルチャーとでも言えそうなもので――というのもサブカルチャーはいまや文化のメインストリームのひとつだから――気にかける人は少ないが,確かな存在感はある.世界を裏から操っているというよりは,世界をかきみだす創造的な悪である,そんな感じ.

 カッシーラーは『人間』のはじめのほうで,内省の終焉を説いている.現象学とか言って頑張って内省しても分かることは知れてる,というわけだ.けれども僕は内省の力を信じたいサイドの人間だ.内省によって世界の構造を捉える.そんないにしえの哲学者の夢を僕は諦めたくはない.
 ともあれ,内省にはうさんくささが付き纏うのは確かで,内省ベースの思考というのは古典に頼るのでもなければ,とても他人を巻きこめそうなものではない.だから内省を信じる,というのは個人的な信にならざるをえない側面がある.けれども,この世界でちゃんとしたエビデンスを持って論じられることは,あんがい少ない.物理主義者だって,全ては原理的には物理に還元できると言ってるだけで,全てを物理に還元して十全に論じる能力はない――つまり物理を学べば他はいらない,ということにはならない.だから内省ベースの思考にもまだまだ可能性はあるんじゃないかな.少なくとも僕はそう信じたい.

 そんな感じです.

なんか最近1000年ぶりくらいに批評したい欲が高まってるんですが,肝心の論じたい対象がない.というポストモダン的状況に陥ってしまって,無を論じるという定版コースに進むわけにもいかず――そんなのは戦前に京都学派が嫌というほどやった――自分は何をやりたいんでしょうねえ,と寝転がりながら考えることしかできない.

そういえば友達が漫画批評サークルに入ってて,自分の言葉でちゃんと漫画を論じてて,それでもって評論なんてくだらないという謙虚な価値観も持ち合わせていて,凄いなーと思った.僕だったら絶対に誇りを持って論じてしまうし,ロランバルトとかラカンとか,そこら辺のキラキラネームを引用してしまうだろう.

とまれ僕は漫画にはそんなに興味はない.小説にもそんなに.じゃあ好きなのは何なのかというと,一部の現代詩と子供時代にプレイしたビデオゲームなのだけど,どっちも批評性があるとは思えない,というのも僕は詩やゲームの身体性が好きだからで,変に思想的に衒ったのはそんなに好きじゃないし,むしろださいとおもう.

じゃあ結局僕は批評不要論者なのか.ある意味ではそうだ.僕の思い入れのあるものにまとわりついている,僕固有の文脈は,僕にしか正しく理解できないし,ある程度言語化できたにしても,他人と共有するほどの客観的な価値があるものとは思えない.けれども,世の中には批評を通じて,見えてくる視界があることも確かで,僕自身,批評によって何回か蒙を開かれたことがある.というわけで,単にかっこいいだけじゃなく,他人の蒙を開くような批評をしたいと思ったのでした.

そんな感じです.ではでは.