死にたさ/死にたくなさ

 死にたいと思ったことがない人は人としてどうかしてるんじゃないかと私は常々思ってるのだけど,そういうどうかしてる人々の死にたくないという感情はどこからやってくるのだろうというのは私の日頃の疑問である.
 自殺を止めよう!という文脈で説得の手段としてよく目にするのは,あなたが死ぬと悲しいから死なないで!という言表だけれど,ここでは自殺の抑止力として,道徳的な負い目の感覚が持ち出されている.つまり,死にたくないのは他人に迷惑をかけるから,ということになるけれど,死にたくない人がみんなそうかというと,これはあやしい.べつの自殺の止め方としては,承認を与えることが挙げられる.要するに正の効用を与えることで,自殺という選択肢を意識の外に弾きだすという消極的な解決だ.つまり,べつに死んでもいいけど楽しいから/楽しくなるかもしれないから死なない,といったところで,まともな人間はみんなそう思ってると思う.
 一方でどうしても死にたくない人は,他人に迷惑をかけるから死にたくないだけじゃなくて,明らかに,死そのものにかなり大きな負の重みを与えている.この大きな負の重みというのが,先天的なものなのか後天的なものなのかというのが疑問なのだけど,素朴に考えると,人が二度死ぬことは不可能なので,死は抽象的な観念でしかありえない.痛みのような生得的な負の重みも何もない死の観念を,先天的に恐れるというのは不可能じゃないかという気がするし,そもそも人が死の観念を先天的に所有してるかどうかはかなりあやしい.つまりおそらく,死の恐怖は後天的なものなのである.そしてどうかしてる人々は,瀕死の人間の苦しみや,親しい人間が死んだという悲しみからの類推,および死後の予測不可能性から,死に大きな負の重みを与えているのだろう,というのが一応の結論,ということになる.
 というわけで死にたくなさは後天的なものなのだけど,同様の推論から死にたさも後天的なものだといえる.すると,死にたさ/死にたくなさは,文化的な一気分に過ぎず,ただ死にたさを獲得しやすい人と,死にたくなさを獲得しやすい人がいるだけだ,という話になるけれど,個人的には死にたさを獲得しやすい人のほうが,直感的な推論から自由な人のように感じて好みである.もっと言うと,まともである.そして私自身はというと,これまでの議論からおわかりの通り,死は効用ゼロの負の外部性のある行為として捉えている(捉えようとしている?)まともな人である.