¬生成変化

 一年くらい前の日記を見返してると,今と考えていることがわりと違っててショックを受けたりする.もちろん問題意識は連続してるのだけど,そこに書かれているのは誰か自分ではない他人の思考のような感じがして,もし書くということが,こういう差延を生みだしていくだけで全く安定した感覚というものをもたらさないのなら,もう一生書いてやるものか! という気分にもなる.
 実際,書くこと,それから読むことには,競争的消費のような側面があって,他人と同じような平凡なことは書けないし,僕たちは常にマイナーで非凡な本を求めて読書をする.フォルマリズム風に言い換えれば,書くことと読むことには,異化-自動化のリズムがつき纏う.
 だから何がクールかは時と場合によって異なるし,異化-自動化のリズムは個人のうえにも降りかかってくるものだから,競争的になって他人を睨みながら読んだり書いたりしなくても,安定した感覚というものはなかなか得ることができない.
 逆に,安定をもたらさないからいいんだ,という向きもあるだろう.それは生成変化を肯定するいかにも芸術家らしい(あるいは起業家らしい)考え方だけど,僕はどうしようもなく安定志向で,芸術家のようになることはできないと思う.
 昔から,僕は新しいことを学ぶのが苦手で,いつも新しい場所は嫌だったし,小説や詩も一週目は何が書いてあるのか分からなくて,二週目になってはじめて面白さが分かる,というような経験がよくあった.学問にしてもスポーツにしても,新しいことをあたりまえのように,どんどん吸収できる同級生たちが羨ましかったけれど,彼らのようにはなれない僕ができることといえば,せいぜい自分のものにした知識や能力を大切にすることくらいだった.
 そんな僕が望むのはもちろん成長しなくていい世界なわけで,これは,三流詩人が言うような,ランボーの夜明けのような詩が書けたら死んでもいい,という発想に近いけれども,仮にそんなものが書けたにしても人生は続く.そして時の経過とともに,自分の成果は自分でない誰か他人がやった事のように思うようになって,霊感がもう一度降ってこないことに失望し,成長しないために努力したはずが,成長するための努力を強いられているような状況に陥っているのに気づくことになる.このジレンマに僕はいつも苦しんでいるわけで,だから研究者やアーティストには絶対になりたくないと思う.