網膜

 部屋の中を無数の影が舞っている.中学の頃,箒を振り回している生徒のおかげで偶然にして網膜に穴が開いた.レーザーで治療はしたものの,また剥がれてくる可能性はかなり高いらしい.あれからもう十年ほどたつけれど,今でも油断してるといつか片眼を失うかもしれない恐怖が押し寄せてくる.例えば片眼を失う代わりにもう一生働かなくてもいいというのなら喜んで片眼を差し出すのだけれど,現実にはそうにはいかない.もともと眼が疲れやすい体質なので,隻眼になってしまったら毎日眼精疲労で苦しむことになるだろう.そんな中でやりたくもない仕事するのはおぞましいことだ.それに仮に失明を免れたにしても,大変な手術を受けないといけない.しばらくすると恐怖は憎しみに変わる.網膜に穴を空けた生徒へのではない.いま・ここに意識を呼びだし続けるこの世界に対する憎しみだ.それから片眼を失うと同時に世界を終わらせれば何の問題も無いことに気づく.そうだ,これまでもそうやって恐怖をやり過ごしてきたのではなかったか.数年後には僕は死ぬんだ,その考えが僕を落ち着かせる.深呼吸して,生きてるあいだは好きに生きようと決める.何度もくり返し抱いた決意である.