スマホ,ゲーム(2)

 相も変わらずスマホゲーをインストールしてはアンインストールするようなことを繰り返しているのだけど,よくできたソシャゲの吸引力というのは凄いもので,あらゆる自由時間にソシャゲをするという選択肢がそれなりの魅力を備えたものとして立ち現れる.僕たちをとりまく文化的なもの――ラノベ,マンガ,アニメ,ビデオゲーム,J-ROCK――は何だったのかと思うくらいそれは単純なのだけど,そういえば昔パチンコというものが流行ってたなと思うと,やはりひとは単純なもので満足できるようにできているのだとも感じる.
 電車の中でみんながスマホでポチポチゲーをする世界.それを批判するのはあまりに容易いことだ.数か月前にメモった『反逆の神話』の一節を僕はノートから探し出す.「地球には60億以上の人間がいて,それぞれがとてもよく似た希望を,夢を,計画を,課題を持っている.そしてそれぞれが食料を,住居を,教育,歯科医療,家族,仕事,それにたぶん自動車を,ことによると自転車をも欲している.このような世界で,個人性がある程度失われるのは致し方ないのではないか.」ここでリストアップされているものの中にソシャゲを付け加えるべきだろうか.おそらくヒースならノーと言って,かわりに理性を働かせるための環境を作ることを推奨するだろう.ソシャゲというのは客観的に見れば凄いイノベーションなのは確かだけど,イノベーションがいつも世の中をよくするとは限らない.僕たちから思考リソースを奪うイノベーションも確かに存在するのだ.
 けれども一方で,ソシャゲが持ってるのめりこませる力というのは,夕陽とか青空とか,青春のイメージみたいな普遍性のあるもののようにも思える.良くも悪くも僕たちはどこにでもある単純な懐かしさを愛し,単純なソシャゲに没頭する.してみると,ソシャゲはよくある趣味のひとつに過ぎないわけで問題視するには当たらないのかもしれない.それに(データがあるわけじゃないけど)たいていのひとはソシャゲをスキマ時間に適度にプレイしてるわけで,中毒に陥って主観的にも客観的にも著しい不利益を被るようなひとは稀だと思う.
 とまれ,ソシャゲの流行というのはそれ自体,興味深い現象だ.ごく当たり前のことを言うと,ソシャゲの流行に本質的な要素はおそらく二つある.一つ目は何かのついでに気軽にゲームにアクセスできるデバイス――スマホ――の普及で,もう一つは余裕を持って何かに没頭できる時間の少なさだ.十年前は一つ目の条件が満たされていなかったから,仮にその頃にソシャゲが存在していたとしても(自分の知る限り,ソシャゲの発生は2007年)今のように流行ることはなかっただろう.それから,もし二つ目の条件が成り立たず,自由時間がありあまるほどあったなら,ソシャゲは今よりもずっとマイナーな遊びになっていただろう.それはソシャゲそのものが忙しい人のために作られているからで,つまるところ,いくら青空が好きでも他に何もせずに十時間青空を見続けるのはたいていの人には退屈なのと同じ話で,時間がたくさんあるなら人はもっと別のことをしたがるものだからだ.
 そんなわけでソシャゲは自分のなかではいまのところ,社会の病理とか人間特有のどうしようもない認知バイアスに関わってはいるものの,それほど有害ではない遊びという位置付けである.