本当に文章が書けなくなっている.音楽も絵画も料理もできないのに文章すら書けないのはつらいなあと思う.例えば今日,僕は次のように書いた.

 哲学はドイツ観念論の時代に終わった,と言うと多くの反論が来るのは否定できないだろう.だが,西洋哲学はすべてプラトンへの注釈であると考えることができるのと同じような意味で,哲学はドイツ観念論の時代に終わったと言うのなら,それほど間違いだとは言えないだろう.

 私見では,ドイツ観念論において重要な書物は二冊ある.一つはヘーゲルの『精神現象学』,もう一つはシェリングの『人間的自由の本質』である.『精神現象学』は,自由主義者ヘーゲル全体主義者に生成変化する途上に書かれた荒削りの書物であり,それゆえ,ヘーゲル本人も意図しなかったような多くの解釈が可能であり,無数の重要なテーマを含む.一方,『人間的自由の本質』は,西洋哲学が無や偶然性にはじめて到達した瞬間である.前者が人間精神のなしうる最良の生成を記述しているとすれば,後者は,その偶然性を指摘している.

 ヘーゲルの精神哲学の偉大さは,低次の調和と,高次の調和――意識と精神――を区別した点にある.それゆえ,シェリングハイデガーをはじめとする,存在の原初を目指す諸思想と違い,反知性主義に陥ることが無かった.逆にシェリングの偉大さは,まさにその存在の原初を目指し,世界の無底性を露出させた点にある.

 ドイツ観念論以降の大陸哲学は,その理論を精緻化させながら,ヘーゲル的立場とシェリング的立場の間を揺れ動いてきた.ヘーゲルの思想は良識的な啓蒙主義につながるものである.一方シェリングの思想は,良識に飽き足らず,哲学的な問を掘り下げていくものであり,実存主義的な思想の先駆けであるだけでなく,ドゥルーズや思弁的実在論の考えにも近い.実存主義も,マルクス主義も,京都学派も,ポスト構造主義も,思弁的実在論も,ドイツ観念論が創り出した問題圏に囚われている.というより,ドイツ観念論が,大陸哲学が問題にしうるようなテーマをほとんど全て発見してしまったと言ったほうがいいだろう.その意味で,哲学はドイツ観念論の時代に終わっているのである.

エッセイとしてはいいかもしれない.あるいは学部一回生が大して調べもせずに書いた文章なら上出来だろう.けれども僕はもう院生で,趣味で哲学書をそこそこの数読んでる身なのだから,もう少しまともな,というか在野知識人っぽいものを書けるようになっておきたいものだと思う.