積読をほとんど全て消費してしまって,読む本もなく,新しく本を買う気力もなく,やっと自由になったと思い,気付けば始まっていたKの続編をニコニコ動画で視聴し,紅葉狩りにでも行こうかと散歩に出て,永観堂を目指して南に向かった.白のモノクロームの空の下,友人と彷徨ったよく知らない寺のある狭めの道を通り,丸田町通りを,平安神宮を,美術館を横切り南に進み,橋を渡って左折.彫りの向こう側に観覧車の見える,色づきはじめた並木道を進み,南禅寺の前に出る.そのあいだ,僕はずっと一人で,人間精神の声も,意識の高まりも感じなかった.自然の偶然に左右される人類という観念が僕の頭を支配していた.寺の脇を通って北上すると,永観堂の前に出る.けれどももう閉園していて入れなかった.数年前に連れられて来たのはここだったのだろうか.違ったかもしれない.周りの様子を見るに,ここのような気がする.夜の,ライトアップされた紅葉の景観を思い出しながら,北上する.母の実家の周りのような田舎の道.友人に,神戸と大阪を混ぜ合わせたらだいたいの街を再構成できると信じてたのに,名古屋は違ったんだ,と語れば,京都も反例だ,と言われたのを思い出す.けれども京都はそんなにfremdな感じがしなかった.目の前にある交差点を左折して,適当に進めば,祖父の家にばったり出くわしそうな気すらした.あるいは,名古屋も歩いてみれば,そんな感じなのかもしれない.街の光景にはある程度普遍性がある.だから,どこにいてもさびしくはならないんだ,そう自分に言い聞かせたこともあった.改めて,今,街をひとつの普遍的な精神の作品として見てみると,歴史性や普遍性――寺院や手のかかった庭,生活の匂いのする家々――と,俗悪さ――体育会系的,若者的,商業的な,広告やポスターの数々――がないまぜになっていることに気づく.有名人が,何の留保もなしにこの俗悪さをこき下ろせば,多くの反発の声が上がるだろう.だからそれは普遍性のない意見なわけだけど,数々の意見のせめぎあいが,街を創る精神を生むのであれば,そんなふうにあえて極端に走ることも必要なのかもしれない.僕も含めて,今の若者にはそういった極端さが欠けている.自分ひとりの力で,普遍性に到達できると信じているかのようだ.けれども普遍性は個にではなく,全体に宿る.それがヘーゲルの教えだった.だから僕たちは,全てを見下ろせるような安全地帯を目指して議論を進めるのではなく,好きなものを率直に好きだと言えばいい.そして批判に必要以上に付き合う必要はない.僕たちは神にはなれないけれど,神は全体でもあるのだから.そんなことを考えながら歩いていると,下宿の近くの知っている道に出た.あるいはそれは自分の知っている道によく似た,別の道なのかもしれない.後者の可能性に望みをかけながら進んでいくと,やはりそれは知っている道で,そんなに歩いたつもりはなかったのに,もう家は目の前だった.