事後的にいいと思うこと.

 昨日,とある美術館に行ったのだけど,展示の前半部分は集中力が持続してそこそこ楽しめたものの,後半に入った頃から倦怠感が押し寄せてきて,早く終わんないかな,という気分になった.それであまり気分がすぐれないものだから全部見終わった後,ショップで何も買わずに外に出てぶらぶら歩いていたら,観光地らしい綺麗な風景に出会って好い心持になって,じゃあ自分が美術館で見たものは何だったんだと思った.けれどもその後,家に帰ってその日見た展示を思い返してみると,そんなに悪くなかったような気もして,もう一度見てもいいかもしれないという気分になった.
 この心情の変化の原因は,今回見た展示の多くがコンセプチュアルなものだったのに関係してるように思うけど,ともかくここで僕が気付いたのは,事後的によかったと思うような楽しみ方もあるということだ.それまでも僕は,退屈なコンテンツを消費した後,事後的によかったと思うようになることが何回かあったけれど,記憶が美化されたことによる錯覚だと考えて相手にしなかった.そしてそれは,そのコンテンツが完全な娯楽作品であり,思想性や新奇性が欠如している限りは正しかっただろう.けれども,思想性や新奇性が少しでも見受けられる場合は,考え直す必要があるかもしれない.というのは,僕たちはいつもそういったものに正しく反応して,面白いと感じることができるとは限らないからだ.だから面白くない作品に出会った時,それが思想性や新奇性のないものの場合は,うまくノれなかったとして片付けることもできるけれど,そうでない場合は反省の過程が不可欠だ.特にコンセプチュアルな作品は,思想性や新奇性には溢れているが,作品そのものはほとんど快をもたらさないものが多い.そういった作品群を何時間も見続けると,いくら個々の作品が面白くても集中力は途切れるものだが,たとえとんでもなく退屈な気分になっても,個々の作品を出来る限り記憶にとどめる努力をすることで,事後的に楽しめるかもしれないのだ.