複数

 僕は本を読むのが好きで,本当に好きな本は下宿の机の引き出しに入っているのだけど,そこそこ大切な本は実家に置くことにしている.そうすることで実家が第二の秘密基地になる.というのは,同じ場所にたくさん本を置いていても,ふだん読み返す本は一番大切な部類の本に限られてしまうからだ.そうならないように,そこそこ大切な本のある環境を,別の場所に作り上げることで,その場所では別のしかたで読書ができる.同じように,僕たちは,僕は,様々な環境を作り上げることで,様々な僕たちを発見できる.そして,そのうちのどの自分に定住してもいいような気がしてくる.
 複数になること――それだけが僕を救ってくれる,そういつも思うわけだけど,一方で時間は有限であり,色々なものに手を伸ばしている暇などないとも感じる.実際のところ,大学の四年間,僕は色々なものに手を伸ばし過ぎた気がしている.けっきょく身についたものは何もなかったのではないかという気も.確かに身についたのは文章を読む能力くらいで,書くことも満足にできなければ,他人に誇れる専門知識も無いような気がする.僕は言ってみれば,偽の教養人,スノッブのようなもので,聞いたことのある概念はたしかに多いけれど,知っている概念を十全に使いこなせるわけじゃない.僕が物事を知ろうとするのは,知ることが楽しいときと,知る必要があるときだけで,そうじゃない物事を知るための努力というものは一度もしたことが無かったと思う.
 とはいえ正直なところ,そんなことはどうでもいい.本当に嫌なのはこれからの人生で,これまで読んだ本のうちの一割も再読できないだろうこと,自分の好きなもの,大切なものの全てを十全に楽しめないだろうことだ.こう言うと身勝手だと思われるかもしれないけれど,僕よりも色々なこと知っていて,好きなものを十全に楽しんでいるようなひとも世の中にはたくさんいるわけで,そんな人たちがとてもうらやましい.