通じなさ

 友人がそれぞれに疲弊していて,僕はそんな彼らの間ではなるべく明るく振る舞って,世界には面白い側面もあるということを示そうとするのだけれど,死にたいという言葉に対しては,死ねたらいいよね,でも死にたくなるような重い気分と,死にたさと,行為としての死はみんな別のものだよ,と自説を解く.けれどもこれがなかなか通じなかったりする.
 気分が僕たちにとって本質的なものであるという話は,例えばハイデガーなんかが百年も前に言ってるわけだけど,ハイデガーは不安とか退屈といった気分を不当に特権視してるというのは,当時よりははるかに心理学が発達した時代に生きてる僕たちにとっては自然な考えで,そうだとすると後は簡単な話だ.気分は大まかに分けると,いい気分と悪い気分の二つがあって,もちろん僕たちは,いい気分を好んで,悪い気分を嫌う.それとは別に,色々な欲望が存在していて,僕たちは気分を良くするためにそれらを満たしたくてたまらないわけだけど,欲望を満たしたところでいい気分になれるとは限らない.というのは欲望は,生理的なものを除けば,経験や不確かな直感に基づくものにすぎないからだ.
 してみると,僕たちが死にたいくらい重い気分の中にいるとき,経験と直感に基づいた計算の結果,欲望は「死にましょう」というメッセージを発するわけだけど,その当の欲望が出所が経験と直感という怪しげなものである以上,死にたさは,死にたいくらい重い気分に必ずつきまとうものとは言えない.これが,死にたくなるような重い気分は,死にたさは違うという言葉の意味だ.
 じゃあ死にたさと行為としての死が別物なのはどういうことかというと,行為としての死には計画性が必要なわけで,計画を練る間に気分が変わってしまうかもしれない.そうすると,欲望はかなりの程度,気分を基盤にして存在するものだから,自死という行為に,それまで感じていたような強い死にたさが伴うとは限らない,というわけだ.
 以上が死にたさと気分に関する僕の考えで,僕は死にたいひとに生きろと言う気にはなれないけど,死ぬ前に一度,死にたくなるような重い気分と,死にたさと,行為としての死はみんな別のものだという考えを検討して,死ぬのならできれば理性的に死んでもらいたいとは思う.