つらつら

 ゼミ発表がありました.そこで僕は頑張って勉強の成果を話そうとしたのだけど,ぜんぜんうまく行かなくて,泣きそうにはならなかったけど,ただどうしようもなく,何もできない気分になって,終わった後,何時間もぼーっとしていた.それで気付いたのだけど,何かつらいことがあると(なくても)とにかくぼーっとするのが僕のくせで,それは生っぽい食べ物を口に含んだときに吐き気がするのと同じくらい僕のどうしようもない仕様だから,気分の切り替えがすぐにできるひとがうらやましいと思った.
 
 僕も僕の友人も意外とエビデンシャリストで,それは科学者としては当然の立場ではあるのだけど,自分の専門の範囲内の色々なもののイメージを語るのすら忌避していて,定義さえあればそれでよしとするような,そんな感覚があって,それがどうもうまくいかない場所がたくさんある,というか,即興的に答えを発言する必要があるような場では,エビデンスを確約する余裕がなくて,僕も彼も,何も言えなくなってしまう.ゼミでうまくイメージを伝えられなかったのもこれが原因で,僕や彼が定義を与えると,他の人からイメージを問われ,フリーズする.
 
 友人のことは知らないけれど,僕のイメージ力,想像力の及ぶ領域は僕の好きな文学/思想の世界の中に閉じ込めてしまっていて,その外ではできるだけ厳密な思考をしようというほとんど無意識的な格率みたいなのがあって,どうも世界はそれではうまくいかないのだけど,普通っぽく振る舞うのはとてもしんどくて,厳密さを放棄すると,狂人にはなれなくても,どこからどうみても発達障害っぽい振舞をしてしまうのは目に見えている.だからけっきょく黙るしかなく,これがまた発達障害っぽくて嫌になる.
 
 ふつうの人間がうらやましい.それはたぶん僕がほんとうに小さかった頃から思っていたことで,小学校の頃から友達を作るのは苦手だったし,体育は満足にできず,食べ物は好き嫌いが多かった.友達と遊んだり,みんなが大好きだけど僕にはちょっと食べにくい食べ物が食べられるようになったり,簡単だけど,僕ができないこと,例えばサッカーボールのドリブルとかその他,ちょっと普通人っぽいことができるようになるたびにとても嬉しかった.
 
 成長するとともに,ふつうの人間の世界観がひどく貧しいことにも気づいたけれど,だからといって普通っぽく振る舞えるようになるわけじゃなく,けっきょく僕は僕なりの貧しさを享受しながら,周りの人から馬鹿にされているような気分で生きていくしかなかった.この状態が一生続くという観念には耐えられないかもしれないので,二年後に僕は死ぬんだと考えて生きている.だから三年後には交通事故にあうと思う.