さびしさ

 西脇順三郎を読んでからさびしさは自分の中でとても大切な気分のひとつになったのだけど,検索していると「心の寂しさ,プライスレス」というキャッチ―で,半ば冗談めかしたような表現を見つけて,ああここに現代の寂びの感覚が宿ってるのか,若いなあ,自分にはもうついていけないなあと思ったりする一方で,lonlinessを寂しさと訳して全否定しているような文章をみつけて,その論旨には同意できなくもないものの,訳語選びのセンスがなさすぎる,などと勝手にいらだったりもする.
 自分は語源(あるいはその俗説)とか欺瞞に満ちた「正しい日本語」とかは無視したい立場なのだけど,それでも時にはこだわりもある.ライターが「さびしい」と言うときには日本的な寂びの系譜を意識しててほしいし,「たのしい」と言うときには「手伸しい」という語源(の俗説?)を意識しててほしい.そんな矛盾した思いを抱えてるから,言葉遣いをまったく意識してないにもかかわらず,あたかも意識してるかのように見える文に出会うといつも僕はその感性を嫉ましく感じる.垢抜けた調子で,僕にとって圧倒的に正しいことを言い続けるような文.そんな文をいつも書きたいと思う.