ざんこく

 ちょっと前に話題になったアンチ・モラリアを斜め読みして,一般的な意味での哲学や理性に対する挑発的な態度にイラっとしたりしたものの,やっぱり得るものはあって,哲学というのはただ論理的に考えるだけじゃなくて,身体レベルの知識や直感を書き換えるものでもあるのだなあと感じた.例えば虚無や存在についてぼんやりと一日中考えるのもやっぱり哲学なのだ.たとえそれが何も言語化できる違いを自分にもたらさなくても,身体は何らかの変容を受けるのだから.それでアンチ・モラリアから得たものは,一言で言うなら残酷さの自覚で,これは京都学派的に言うなら絶対無の自覚とか,原始偶然とかに相当するものなのだろうけど,その絶対無的なものを残酷さの観点から哲学的にとらえたのは,アルトーを経由したD=Gがはじめてなのかもしれない.Dを読んでたのなら,残酷さなんて昔から知ってるほうが普通じゃないかと思われるかもしれないけれど,僕はアルトーの露悪的な残酷さの称揚は端的に言って野暮だと思っていたし『哲学とは何か』でDがはっきりと打ち出すような,カオスから身を守るために最小限の体系を組み上げるような態度に共感を覚えていた.そこにいるのはアルトーと較べるとたいぶ人間的で,穏やかなDである.ネグリ的,あるいはカウンターカルチャー的なD=G観は,過剰接続的であるだけじゃなくて,この残酷さも足りないといえるだろう.もっともそれは倫理を考えるときにはいくぶんか放棄しなくてはならないものではあるが.そんなわけで,はじめてアルトー的D=Gのことがよく分かった気になった.あるいはスピノザ×アルトー.意識は傍観者であり(必然論),世界は残酷であると知ること.